2005年3月27日、日曜日。吉祥寺に近い住宅街。

 高田渡が長年住んだアパートから出かけるところから、映画ははじまる。

 自分でギターケースを背負い、タバコを吸いながら最寄の三鷹駅に向かって飄々と歩く高田渡に、カメラは寄り添い、会話する。顔の下半分が白髭に覆われたその姿は、年齡を超えた風格であった。当時56歳。

 2004年に公開された映画『タカダワタル的』がヒットして、若い世代のファンが増えた。仕事も急に増えた。三鷹駅への道を歩きながら、自然とそんなことが話題となる。カメラ「映画も発表しちゃったし、引っぱりだこじゃないですか」高田渡「お断りしているんだよ、だから。最近、具合がよくないもんですからってね。ゆとりがあった方がいいと思うよ」。

 三鷹駅に到着し、電車で高円寺駅へ。この場面で、デビューのころからフォークシンガー高田渡を見守ってきた音楽評論家・田川律が、自分で書いた「前口上」を自分自身で朗読する。「渡ちゃんは60年代の終わりからずっとマイペースで歌いつづけてきた。フォークソングがニューミュージックと呼ばれるようになろうが、突然その中から売れっ子が登場してフォークソングがヒット曲の仲間入りしようが、そんなこと知りませんと飄々と歌いつづけてきた」。

 

 高円寺パル商店街の路地裏にある居酒屋「タイフーン」。

 50平米ほどの店内を片付けて作った即席の会場。椅子席20名+立ち見客数十名が集まり、狭い店内に熱い空気が満ちる。高田渡がギターのチューニングをはじめる。いつになく慎重だ。この夜、彼が手にしていたのは2003年に急逝した音楽仲間・坂庭省吾のギター「Martin D-45 1972年製」。ライブで弾くのは、この夜が初めてだった。

 ギター一本の単独ライブがはじまる。一曲目はいつものように『仕事探し』から。『失業手当』『アイスクリーム』『69シックスナイン』『鎮静剤』とつづく。ぎゅうぎゅう詰めの会場で、移動もままならないカメラは高田渡の右側の壁際で立ち見をしていた。三脚など立てる余地もないので、はじまりから終わりまで手持ちである、同じポジションで。カメラの真下、つまるところカメラマンの股下で、小学一年生くらいの女の子がうずくまって歌を聴いていた。女の子に気づいた高田渡は優しく声をかける。「大丈夫?椅子貸そうか?いまのうちにこういうのを聴いといた方がいいよ。何にも怖くないよ」(客席は爆笑)。

 この夜の高田渡の話術は、落語家・古今亭志ん生もかくありなんと思わせるほど名人の域に達するものだった。客席がよく反応した。だから、ますます高田渡のテンションもあがった。前半の最後に珍しくまじめな話をはじまる。「ふとしたときに、自分の来た道を振り返っている自分がいるんです。そのときに、明日逝ってしまうのかな、と思ったりしますね、ほんとに」。

 

 親友・中川イサトの話(高田渡が亡くなった直後のインタビュー)。

 これまで何度も酒が原因で入院しても帰ってきてくれたから、今度も生還してくれると信じていたが、ダメだったと悲しむ。1968年のフォークキャンプで「自衛隊に入ろう」を歌った若き高田渡に驚いたこと、京都時代は珈琲が好きで六曜社やイノダでノートに詩を書いていたことを懐かしそうに思い出す。映画は、そのころに作った『コーヒーブルース』で前半が終わる。

 

 ライブ後半は『しらみの旅』ではじまり、『トンネルの唄』『ひまわり』『ブラザー軒』とつづく。七夕の夜に死んだ父と妹の幻が現れる歌のあとに、高田渡は「自分の死」を風刺する。「ぼくの兄貴が伝統工芸をやっていまして。おれが死んだらさ、おまえのところの溶鉱炉で焼いてくれるって聞いたら、いいよって。1,500度だから何にも残んないけどいいかあって」(爆笑する客席)。

 

 高田渡追悼記事を読む親友・中川五郎(2005年4月28日 高田渡お別れの会)。

「きまじめで、頑固で、照れ屋で、純情だった。だから、みんな高田渡を愛した。欺瞞や作為、見せかけが大嫌いで、力あるものに寄り添い、威張る人間を許さなかった。だから、みんな高田渡を愛した。とんでもなく酒を呑むようになり、いろんなひとたちにさんざん迷惑をかけた。だから、みんな高田渡を愛した」。青春時代から一緒に歩みつづけていきた同志にしか書けない言葉が並んでいた。

 

 高田渡が続けて唄う『風』の歌詞。「ほんとのことが言えたらな。眼が見たことが言えたらな。思ったことを便りに書けたらな。頭の上を吹く風よ」が心を揺さぶる。ラストはいつもの『生活の柄』ではなく、高田渡は『夕暮れ』を選んだ。「夕暮れの街で、ぼくは見る、自分の場所からはみ出してしまった多くのひとびとを」。ライブが終わり、手作りのポスターをはがす主催者のひとりの若者が呟く。「夢のようです」。その若者に「ありがとう」と声をかけ、夜の闇に高田渡は静かに消えていった……。

 

(ここからは監督兼カメラマンのつぶやき)

 高田渡はこのライブの一週間後、北海道ツアー中に倒れた。そして、19日後に帰らぬひととなった。その後、カメラは高田渡がいない街をしばらくさまよった。「高田渡の不在」を映像化できないかと考えた時期もあった。あれから12年。ずっとお蔵入りにしていた渡さんの最後の単独ライブの映像を久しぶりに観て、やっと気がついた。当時は「まるでいつもの夜みたいな」日常的映像が12年の歳月を経て、「まるでいつもの夜みたいではない」非日常的なものに発酵していることに。小さな店での条件の悪い単独ライブ。しかし、その夜の高田渡の歌とおしゃべりには「人生の柄」が仕込まれていた。

 ライブのなかで高田渡は「死んだなどと言う必要はない。最近見かけませんねって言われたら、見かけませんと言っときゃいいんだ」と、死を至極自然なこととして捉えている。きっとこの映画についても「いまごろ余計なものを作りやがって」と怒っていることだろう。だから、映画の最後は「渡さん、ごめんなさい」という言い訳で終わる。果たして、渡さんはこんな子どもみたいな言い訳で許してくれるだろうか……くれないだろうな。